冷たく実用的な世の中に見捨てられた、熱く居心地の悪い記憶。 歴史を振り返ることを知らない人々の政権下で、再び読み返す昔の記憶。 光州の血を黙認した「地域感情」が、未だに進行形という事実はとても重要である。 これの殆どは光州への無知からもたらされる。なぜ光州が戦わなければならなかったのか。 血を流さなければならなかったのか。そしてなぜキムデジュン(金大中)に揺るぎない支持を送るしかなかったのか、他地域の人々はあまり知らない。制限的に縮小再現した映画とドラマの類はこのような無知を再生産することに寄与する。関連文献などから借りてきた文章でまとめてみた。 [華麗なる休暇の記録] 5月17日 夜11時40分。文公長官イギュヒョンは5月17日24時を期して非常戒厳を全国に拡大すると発表した。戒厳拡大が発表されて2時間が過ぎた後、全南大と朝鮮大に特戦司が投入された。 - ガンジュンマン<韓国現代史散策>(人物と思想、2003) 5月18日 午前10時。休校令が下された状態で全南大正門前に集まった学生100余名と武装空輸隊員が対峙した。200-300名ほどに数が増えると学生たちは「戒厳解除」「休校令を撤回せよ」というフレーズを叫び始めた。まもなく対峙中だった空輸部隊の責任者が「突撃、前へ」という命令を下し、空輸隊員たちは学生たちの中に切り込みながら棍棒を振り回した。棍棒は鉄の芯がはめこまれた殺傷用棍棒であり、これに殴られた学生たちは血を流して倒れた。 - ガンジュンマン<韓国現代史散策>(人物と思想、2003) 「空輸部隊の兵士たちは心行くままに可能な限りすべての暴力を行使した。初日から大剣を使用し、行き過ぎた暴力に抗議するお婆さん、お爺さんたちに筆舌に尽くしがたい暴言を吐きながら殴打し、女性たちを暴行し、服を破りあげくには乳房を大剣で切り刻んだ。」 - チェジョンウン<五月の社会科学>(풀빛, 1999) 「空輸のやつらが女子高生を捕まえ、大剣で制服の上着を引きちぎりながら弄んでいた。その光景を見ていた60歳を超えたように見えるお婆さん一人が「アイゴ!私の息子たち、こんなことってないでしょ?」と言って止めると空輸のやつは「このアマは何だ。お前も死にたいのか?」と言って軍靴を履いた足でお婆さんの腹と足を蹴り上げ、お婆さんが倒れると足と顔を軍靴を履いた足で踏みつけた。そして彼らは女子学生の制服の上着を大剣で破り、女子学生の乳房を刀で切りつけた。女子学生の胸では鮮血が胸の下へとだらだらと溢れ出た。 - パクナムソン<被告人に死刑を宣告する>(샘물、1988) 5月19日 「5月19日に行われた空輸部隊の蛮行は残忍極まりなく、鎮圧に出てきた警察すら涙ぐみながら「どうか家へ帰ってくれ。空輸部隊の手にかかればみんな死ぬ」と哀願するほどだった。」 「周りの老人たちが空輸隊員の暴力を止めようとすると、彼らは老人たちの頭を棍棒で叩きつけた。老人たちも頭から血を吹きながら倒れた。このような姿を逃げながら見つめたデモ群衆たちは、どこからそんな力が湧いたのか一斉に振り返った。そして「殺すなら殺せ!」と言いながら空輸部隊に正面から駆けつけた。」 - 全南社会運動協議会編、ホァンソクヨン記録<死を超え時代の闇を超え>(풀빛、1985) 「あるお爺さんは「なんてことをするのだ。私は日帝のときにも恐ろしい巡査たちをたくさん見てきたし、6.25のときの共産党も経験したが、あそこまで残忍に殺すやつらは初めて見た。学生たちに何の罪があってあんなことをするのか。罪があるとしてもあんなことはできない。あいつらは国軍ではなく、人の皮を被った悪鬼どもだ。」と言って慟哭した。ある中年の男は「私は越南戦には参戦していてベトコンを殺してみたがあんなに残忍ではなかった。ああいうふうに殺すなら、いっそ銃で撃ち殺したほうが人道的だ。あいつらは生きる資格がない」と言って嗚咽を零した。街中は血の川、涙の海となっていた。」 「ロータリー付近の戦闘で頭が潰れ、腕が折れ、体中血まみれになった負傷者を急いで病院へ移送中だったタクシー運転手に、空輸隊員が負傷者を下せと命令した。運転手が切なく「あなたも見てのとおり、今死にかけている人を病院へ運搬しなければならない」と訴えるとその空輸隊員は車の窓ガラスを割り、運転手を引きずり降ろし大剣で無残に腹を刺して殺害した。このような形で少なくとも3名の運転手が殺害されたが、これは次の日である20日。もう一つの起爆剤だった車両デモの直接のきっかけになる。」 - 全南社会運動協議会編、ホァンソクヨン記録<死を超え時代の闇を超え>(풀빛、1985) 5月20日 大剣だけでは不足だったのだろうか。20日午後からは火炎放射機までもが使用された。2時30分ころ空輸部隊は火炎放射機を撃ち、幾人もの市民たちがその場で焼かれ死んだ。 - チェジョンウン<五月の社会科学>(풀빛, 1999)、ガンジュンマン<韓国現代史散策>(人物と思想、2003) 「市民たちはひょっとして自分たちの運命に関する新しい知らせがTVを通じて放映されないだろうかと期待しながらみんな熱心に視聴したが、TVではなんの関係もない連続ドラマや娯楽プログラムだけが、何もなかったかのように放映されていた。彼らはテレビジョンを見ながらメラメラと燃え盛る怒りを感じた。一方では罪もなく同じ同胞が絶叫しながら死んでいくのに、あのテレビジョンの脚を揺らす踊りは誰のためのものかという背信感があった。」 - 全南社会運動協議会編、ホァンソクヨン記録<死を超え時代の闇を超え>(풀빛、1985) MBCのほかにもKBSと税務署も火に燃えた。新軍部はこの放火たちを「暴徒論」の証拠としてTVなどを通じて繰り返し見せ続けた。 - ガンジュンマン<韓国現代史散策>(人物と思想、2003) 「全南大からシン駅(今の光州駅)まで徒歩で移動しつつアスファルトと建物に向けて射撃を実施する。トラックの上ではM60が援護射撃をしながら一歩一歩シン駅へ向かって近づいていく。私兵たちに向けて叫びが上がり始めた。後退はない。後退すればみんな撃ち殺す。」 - 光州毎日正史5.18特別取材班<10日間の抗争>(社会評論、1995) 5月21日 午前10時頃、錦南路には10万を超える市民たちが集まっていた。市民たちはひとまず正午まで空輸部隊を市の外郭へ撤収させるという約束を信じ、待っているところだった。約束した正午が過ぎても何の変化がなかった。午後1時定刻、建物の外部に設置された拡声器を通じて愛国歌が鳴り響き始めた。それは空輸部隊の集団発砲を知らせる信号だった。光州市民たちを皆殺しにするつもりだったのだろうか。市民たちは空輸部隊の集団発砲を正面から受け、倒れ始めた。 - ガンジュンマン<韓国現代史散策>(人物と思想、2003)、- 光州毎日正史5.18特別取材班<10日間の抗争>(社会評論、1995) 「空輸どもは同じ同族を殺傷し、倒れた人々を運べないように連発で威嚇射撃をし続けた。未だに空輸部隊どもの射撃線の付近で負傷したまま殺さないでくれと叫ぶ市民たちの哀願の声は凄絶であり、これはそれを見つめる市民たちの血を沸騰させた。空輸どもはまだ死なずにアスファルトの床の上で助けてくれと哀願する市民たちを助けるために駆け付ける市民たちにすら射撃を加え、射殺してしまった。付近の建物の壁に張り付いてこの光景を見ていた市民たちはみんな泣いていた。」 - パクナムソン<被告人に死刑を宣告する>(샘물、1988) 「瞬時に錦南路は血と慟哭の海となった。空輸部隊は都庁と周辺の建物に隠れ、見える人ごとに狙撃を加えた。1時30分頃には一人の青年が装甲車の上で上着を抜いて対極旗を翻しながら「光州万歳!」を叫びながら駆けつけた。すべての市民が緊張した面持ちで彼に注目する中、一発の銃声と一緒に血が弾け、青年の首が曲がった。この光景を見たすべての市民たちは、とても口では表現しえない衝撃に全身を震わせた。もはや本当に引き返せない「戦争」だった。市民たちはまもなく銃を手に入れるために市内、外の武器庫へ向かった。」 - チェジョンウン<五月の社会科学>(풀빛, 1999) 21日夕刻、ついに市民軍は戒厳軍を都庁から追い出し、占拠することに成功する。 - ガンジュンマン<韓国現代史散策>(人物と思想、2003) 5月22日 22日、非公式的な停戦が成就し、宗教指導者らを含む市民収拾委員会と新軍部の間で事態の平和的解決のための対話が始まった。しかしこの日、戒厳当局はキムデジュン(金大中)を光州暴動の背後だと発表し、一部の特戦司指揮官たちは武力を動員して光州の「暴徒ども」を「掃討」すべきだと主張した。 - William H. Gleysteen著 ファンジョンイル訳<知られざる歴史>(中央M&B、1999)、ガンジュンマン<韓国現代史散策>(人物と思想、2003) チョンドゥファン(全斗煥)はチョンソクファンに「チェ将軍の士気が極度に低下しているはずなので、勇気を失わずに奮発してくれと伝えてくれ」と言い、チョンドゥファン自身の名義で金一封100万ウォンをチェウンに届けてくれと支持した。 - チョンソクファン<秘話/5.18当時情報部全南支部長チョンソクファン備忘録>(新東亜、1996年1月) 5月24日 空輸部隊はジウォン洞ジュナム村を出発し、ハク洞とジンウォル洞を通り市民たちの目につかない野山へ撤収していた途中、ジンウォル党へ至り隣接地域へいたずらの銃撃を加えた。貯水池で体を洗っていた子供たちに集中射撃を加えると子供たちは堤防の向こうへ身を隠したが、全南中学校1学年だったパクファンボムが頭に銃を撃たれ即死した。また、ジンウォル棟の庭園で遊んでいた子供たちにも無差別集中射撃を加えた。みんな身を隠したが靴が脱がれて振り返った孝徳国民学校(小学校)4学年チョンジェスは銃に撃たれて即死した。 - ガンジュンマン<韓国現代史散策>(人物と思想、2003) 全南大学校の教授たちは<大韓民国のすべての知性人に告げる>を発表した。「すべての人々は6.25のときにもこのような残酷な殺戮戦はなかったと泣き叫びながら「みんな死のう」「殺してくれ」と叫びながら獣のような戒厳軍と丸腰で戦いました…(中略)孤立した私たち光州の市民たちには何よりも一刻が急がれています。民衆市民たちよ!民主化のために、私たちの生のために立ちあがりましょう。」 - キムジョンナム<同胞よ、何をしているのか>(生活聖書、2002年12月) 5月25日 朝8時、ファングム洞付近で酒屋を経営する21歳のチャンギェボムという人が都庁農林局長室に倒れるように切羽詰まって飛び込みながら肩を握りしめて「毒針に撃たれた!」と叫んだ…(中略)毒針事件が発生すると都庁内の雰囲気が急に殺伐とした。あちこちで間諜(北朝鮮が送ったスパイ)が闖入したという噂が立ち、みんながざわめきながら都庁内には不安で留まれないと言って、かなりの数が出て行った…(中略)この事件は事前に計画されたもので、浸透情報要員たちの都庁指導部撹乱作戦であった。 - ガンジュンマン<韓国現代史散策>(人物と思想、2003) 5月26日 全南都庁にて最初で最後の内外信記者会見が開かれた。アメリカの日刊紙「ボルティモア・サン」誌の記者ブレッドリー・マーティンはこの記者会見で会った光州抗争指導部の青年学生闘争委員会代弁人だったユンサンウォンについてこう語った。「私はすでに彼が死ぬであろうことを予感した。彼自身もそれを知っているようだった。表情には柔らかさと親切さが滲んでいたが、時々刻々と迫ってくる死の影を読みとることができた。知的な目つきと強い頬骨が印象的な彼は、最後の一人が残るときまで戦うと話した。」 - イムチャンヨン<「暴動」えはない「民主抗争」として刻まれるに貢献したユンサンウォン5.18市民軍代弁人>(ソウル新聞1998 9月10日) 5月27日0時を起点として光州の市外通話が切られると、都庁に残っていた人々は戒厳軍が進入するだろうことを予感した。「高校生たちは先に銃を捨てて投降せよ。私たちは射殺されるか捕まっても殺されるだろうが、ここにいる高校生だけは必ず生き残らなければならない。生きた人々は歴史の証人になるべきだ。私たちは民主主義と民族統一の輝く未来のために、抗争の最後を自爆で終えてはならない。さあ、高校生たちは先に出ろ。」 - 全南社会運動協議会編、ホァンソクヨン記録<死を超え時代の闇を超え>(풀빛、1985) 5月27日 夜明け4時頃、都庁前はタンクを先陣に立てた戒厳軍により完全に包囲されており、錦南路を中心にして市街戦が繰り広げられ始めた。戒厳軍の装甲車の上に装着されたサーチ―ライトが都庁を照らす中、戒厳軍は降伏を勧誘する最後通牒を放送した。しかし都庁内では何の反応もなく、すぐに銃声が鳴ると同時に戒厳軍のサーチ―ライトは壊された。すぐさま暗闇が広がり、戒厳軍の一斉射撃が始まった。 - ガンジュンマン<韓国現代史散策>(人物と思想、2003) 逃げ惑っていた市民軍を殺害した戒厳軍は、8名の投降者たちを全員射殺した。一人の戒厳軍兵士は片足を市民軍捕虜の背中に乗せたまま射撃しつつ「どうだ。映画を見物しているようだろ?」という冗談まで投げかけた。 - 全南社会運動協議会編、ホァンソクヨン記録<死を超え時代の闇を超え>(풀빛、1985) 「市民軍たちがすべて正面から応射する中、後ろの塀を超えて入ってきた3空輸特攻隊は都庁建物へ潜入し、目につくなり銃を乱射しながらあちこちに手榴弾を投げ入れた。それから確認射殺までした。多くの市民軍は特攻隊が入ってくることを見たが、どうしても引き金を引くことができなかった。」 - チェジョンウン<五月の社会科学>(풀빛, 1999) それ以降 光州虐殺の惨状を目撃してからソウルに上ってきた西江大生キムイギは、衝撃に耐えられず5月30日午後5時30分、ソウル鐘路5街基督敎会館にて<同胞たちに捧げる文>という文をばら撒きながら投身自殺した。 後日、長い間家を離れていて申告が取られなかった死亡者数まで合わせれば全体の死亡者数は2千名に及ぶだろうと言う主張も提議されたが確認する術はない。空輸部隊員たちが最初から死傷者数を隠蔽するために、死傷者が発生するごとにトラックに乗せ、人知れぬ場所に埋めてしまったためにますます困難だった。 - ガンジュンマン<韓国現代史散策>(人物と思想、2003) <朝鮮日報>は5月25日付の社説で、抗争勢力らを「分別力を喪失した群衆」だと責め立て、「…57年前の日本関東大地震のときの朝鮮人虐殺の歴史が、反面教師的に我々に苦々しい教訓を与えてくれている…」とし、まるで光州市民たちは無慈悲な日本人暴徒たちと同じなのだと比喩したりもした。 - チョンウンヒョン<「光州の束縛」を解けなかった韓国言論>(大韓毎日2001年5月19日) 無力感に陥った湖南人たちは、ただ無言にキムデジュンへの支持を通じてその悔しさを拭おうとしたが、同情心がなく光州虐殺について涙一滴流したことがない一部の韓国人たちは、そのような彼らの平和的選択についてすら軽蔑を送ることを惜しまなかった。新軍部はそのような「敵の創出」効果で非湖南、特に嶺南を結集させ、進んでは湖南をキムデジュンと結びつけることで、湖南を除くすべての地域の湖南に対する反感を自分たちを守る基盤として活用した。以降、韓国社会は永遠にそのような悪用の後遺症に苛まれることになる。 - ガンジュンマン<韓国現代史散策>(人物と思想、2003)
by no_moyan
| 2010-05-18 20:57
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