数日前、ソウル西大門区一帯と麻浦区の新村にまで貼られた広報物を見て人々は唖然となった。G20首脳会議(以下、G20)期間に生ゴミの排出をやめてくれという西大門区庁のポスターは瞬時に強い反発を呼び起こした。「世界が注目しています」という標語に対し、市民は「だからご飯も食べるなということか?」と言い返した。 ハンギョレが報道したこのエピソードはG20をめぐる社会的不一致の端的な顕れである。国家にとって重要な行事だと声高に広報してはいるが、当の市民はそれがなぜ必要で、なぜ不便に耐えなくちゃいけないのか納得できずにいる。民心が天心という言葉があるが、今のように当局と市民の声がズレている状況を望ましいとは言いがたい。 ところが今、国民が肌で感じることができる問題は、政府の広報戦略についてのことばかりだ。G20が重要なことだとしても、それがなぜ重要なのかについては具体的な事実の説明のほとんどが抜け落ちている。韓国の立場からの利害打算を公式広報キャンペーンに赤裸々に載せることはできないのだろう。だからイメージキャンペーンに走るのだろうが、現政府は好ましいイメージの構築にすら失敗しているのが現状である。 G20を主催し、広報する韓国政府当局は、この行事の意義を「国格の上昇」だとしている。実際、いわゆる産業化世代の50代以上の年齢層はこのようなアジェンダに賛同する雰囲気だ。KBS9時ニュースを45.7%の支持率で視聴するこれらの階層は植民地および戦争による貧困や高度成長課程までを連続で経験してきた世代だ。彼らはかつて国際ニュースでのみ聞いてきた「G7]が韓国と肩を並べることをとても誇らしく思ったり、少なくとも好意的に思う傾向が強い。 言うなれば、当局の広報はこれら世代が共有する情緒に訴えている。そのためG20という行事は「サミット(Summit)」のことは言及しないまま、まるでオリンピックやEXPOのような大々的な官製国際行事のように広報されている。そのためか、当局のこのような広報戦略はG20という名のブランドを国民に広く知らせることには成功したが、逆説的にその行事の内容は知られなくする結果につながっているのだ。 むしろ上述の「国格の上昇」というスローガンは現在の社会主導階層にとっては逆効果として作用する。かつて20世紀成長の主役だった旧既成世代には効果的なマーケティングとして機能しているようだが、現在の韓国社会で主要な経済活動をなす階層は20代中盤~40代中盤の世代だ。MBCニュースデスクを61%が高く信頼している彼ら階層には国格がどうとかいうあやふやな話はただの根拠のない、受け入れがたい扇動フレーズでしかないのだ。 産業化以降の世代は前の世代に比べ経済的な貧困を比較的少なく感じながら自由に過ごした。特に87年民主化で象徴される軍部独裁の終息および権威主義の解体を目撃して育った世代である。このような巨大談論のパラダイム変化が現在の世代に一定以上の影響を与えたことは間違いない。つまり、彼らにとって、巨大な権威を掲げて扇動フレーズに足並みを合わせろちう話はとても反感を呼びやすいネタだということだ。「正反合」のフィードバックに慣れきった社会階層にとって疎通の不在は毒として作用する。 西大門区庁の件は当局が慌てて鎮火したため霧散したが、このような「疎通の不在」を象徴している事件だった。20年前のソウルオリンピック当時と比べてみるとより明らかだ。当時は京仁街道撤去のような事件が大っぴらに行われたが、今は市民が政策の執行における具体的な背景および根拠を堂々と要求しているのだ。 この件においても、一部の市民からの「なぜ開催場所でもない西大門区がこのような行政政策を打ち出すのか?」との批判はこのような様相を物語っている。今の韓国は民主主義国家であり、政府が国民に行動を求めたいのなら、国民から合理的で具体的な根拠を求められて当然なのだ。 G20が上手くいけば国家にとって利益になるという命題が本当なら、少なくともそのことが個々の構成員である国民に悪影響を与えてはいけないという前提が伴うべきだ。(世界化および反世界化に関する論議は別の記事で書くので省略する)しかしあやふやで観念的なキャンペーンと広報戦略は民主主義国家には似つかわしくない旧時代的行政である。国民に行動を求めるときは、具体的で合理的な根拠を提示しつつ、行動を強制するのではなく協力を求める姿勢が必要なのだ。それこそが21世紀民主国家の大韓民国に相応しい「国格」ではないのか。
by no_moyan
| 2010-11-09 08:54
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